温故知新

197X年生まれのいわゆるロスジェネ世代 バブル世代、ゆとり世代の狭間で際立って目立つこともない世代 とは言いながらも実はこの世代、内に秘めた熱い思いを持った人間がたくさんいます 秘めすぎて冷めないうちに頑張ります

教育について

知恵、知育
なぜ義務教育があるのか

教育という言葉に感じる恐ろしさ

人は、生まれたときは「善」であり育つにつれて「悪」となることを「性善説
逆に、生まれたときは「悪」であり育つにつれて「善」となることを「性悪説
と言うらしい。

いずれにしても「善」と「悪」を持ち合わせていて、育つにつれて変わっていくという論理ということ。

そもそも「教える」という言葉に秘めるのは支配的なニュアンスである。

知育ということからいえば知識としての学習はインプットとして豊富にあるべきと考えられるがある側面でのものの見方を知識として教え込むような育て方はいかがなものか。

純粋にいえば語学、数学、地理などは普遍的な知識として必要と考えられるが
歴史などはどうだろうか。


近年マネジメントの分野においても「ティーチング」から「コーチング」に変わっているが、
それは元とも個人が持っている特性に合わせて才能を伸ばしていく手法に変わっているということ。

多様な考え方は望まれるべき思想ではあるが
組織としての強さはある一つの目標に向けて同じ方向を向いていることが良しとされてきた。

今の時代は異なる。

価値観が多様化している組織もそれにしたがって一つの方向に力を注ぐよりも広く力を注ぐほうが良い結果を得られる可能性がある。

ハイリスクローリターンな時代である。

つまり小さなチームを作りリスクを分散してハイリターンの可能性をつかむほうがよいのである。

リスクをつかんでしまったチームは失敗の成果として次に生かせばよいだけのことであり、
企業そのものが倒れるようなリスクは極めて少ないと考えられる。

だたしここで問題となるのがハイリターンをつかんだチームである。

本来ならばそのリターンは企業で分配するべきであろうがそうは中々一筋縄でいかない

妬みなどもあるだろう

ではどうするか


もっと高い視座、広い視野で考えてみよう。

企業の未来、日本の未来、世界の未来という規模で考えていけば向いてる方向は同じである。

それは右左と一見正反対に見えてそれは最終的に混じり合う。


辿り着くところが同じであれば妬みなど必要ない。


過程はどうあれやはり最終的には平等だ。


何の話だったかな、、


そうだ教育について話を戻そう。


つまりは教育とは誰かが誰かを支配する為のものではなく、また、支配されるように育てられるようなものであっては駄目なんだ。


教育特に義務教育は『教える』じゃなくて『与える』ことを意識すべきだ。


以上です。